参考資料:裁判所への訴えと、3つの絵の説明

私の体験したこと歩んできたことを理解していただくために、参考資料として、裁判所に訴えた文章と、3つの絵の説明を紹介します。併せて読んでいただけましたらありがたいです。

参考資料1:2014年(平成26年)1月21日の宇治簡易裁判所での本人尋問の際に提出した文章

裁判所に申し上げたいこと

私は国の方針が終始一貫していないことに怒りを覚えます。
それは、原爆当時、「怪我」をされた人が、身体的に弱っている時は、一定期間養生には必要であっても、ある程度すると元気になりますが、その当時の「傷口」があれば、本当に原爆を受けた者とし、認定が受けられる。そういう人たちを何人か見て知っています。

国は、私みたいな内部的なものを患っている人たちのことをないがしろにしてきています。そういう方針に本当に腹の底から「むかっ腹」がたちます。そういうことを考えると、なんとも不条理であると感じます。なんでこんな病気をせねばならないのか、そのたびに死に直面、覚悟せねばならないのか、誠に理不尽であるとしかいいようがありません。

私は、この件について、何か社会的に訴えるものはないかと思い、昔(小学生のころ)絵をやっていたので、この20余年間、絵を画くことに目覚めました。

平成24年2月22日の弁護士の意見陳述のときに提出した資料2という絵は、母親と一緒の気持ちになり、母親の当時の凄絶、悲惨な状況の中、乳呑み児の私と兄弟4人(ハト)を現したものです。

故人となった母親が、育ち盛りの5人の子どもと病気の祖母の6人を、県庁の職員として働き、どうした思いで育てたか、わかりますか。誰からも、物、金銭的な助けを借りなくて、兄弟手と手をとり、背中を丸くしていかに貧しくても正しい途を歩んできたものです。そういった貧しい生活をしながら、母親の後ろ姿を見てきました。そういった母親の人間としての無念さとか、耐え難きを耐えた真情とか、怒りというものはこういうものであったのだと思い、そういった叫びを墓場の草陰から感じながら、一緒に、私の、国の理不尽な行為に対する心の叫びとあわせ、重ねて画いたものです。

私は、父の昔の部下の人たちから「お父さんの生まれ変わりの人間であるから、お父さんみたいな人間にならないといけないよ」とよく言われました。40歳まで精一杯働いて、「さぁ、これからだ」という時に脳出血を患いました。この30年間の間にいろんな病気をやり、毎日の訓練、リハビリの病院通いは、時には自暴自棄となり、自分の体ではないような気持ちになります。

よく知人に言われます。「元気であったらどういうふうな生活をしているだろうね」と。慰めと、励ましを聞きます。そして、時々、自分にむち打ってキャンバスに向かっている姿があります。自分に叱咤激励せねば、最近は画けません。そうしながら、毎日胃瘻の準備を自分で全てしながら、生きて参りました。これは大変でした。

今まで、私を取り巻くいろんな人たちに感謝感激、特にリハビリ、ヘルパーさんには、私が落ち込んだ折に心を支えていただいて、何ともいいようのない心の温かさを感じて感激しています。こういった社会的福祉の組織を作られた国の方針には頭が下がる、今日、こんにちです。

私の叫びと一緒に、母親の墓場の草陰からの叫びを重ねて、心静かにお聞き下されば幸いかと思います。

平成26年1月13日
原野 宣弘

参考資料2:絵の説明【悲傷の月】 2007年(平成19年)5月

原爆平和祈念像を画くにあたり
今年は絵にちょっと変わったものを画きました。
長崎の平和祈念像です。
いみじくも画いている途中で伊藤市長が倒れました。
市長の原爆に対する情熱はほとばしるほどに燃え上がる熱いものでした。
この世の原爆廃絶に対する伊藤市長の痛恨の祈念像として画きました。
私の平和祈念像とのかかわりは、父が原爆で亡くなりました。
投下後すぐに母の背に負われて(1歳未満で)父の骨の収集行ったとか。

身の毛のよだつ凄絶悲惨
かえり見るさえ堪えがたい真情
誰が平和を祈らずにいられようか!!

原野 宣弘

参考資料3:絵の説明【ハトはどこへいく】 2011年(平成23年)10月

この絵は、私たち家族の、凄絶悲惨の中で、どうあらねばならないのかと訴えているつもりです。

4羽の鳩は私の兄弟姉妹4人、エンゼルは私です。鳩の真ん中にいるのは長男、左上は長女で、左下は次女です。鐘のアームにいる鳩は次男ということで、そしてエンゼルが私です。

鐘の中のマリア様は母親で、泣くにも泣けず、言葉にもできず、凄絶さを前にして途方に暮れている姿です。足下には父の亡骸を前にして、ただ、佇む姿。誰が想像しただろうか。そういった母親の心情を察してか、兄弟姉妹とエンゼルが、どうぞ神光を母親に与えて下さい。「おかあちゃん」兄弟姉妹そろっているし、早くこちらへ帰ってきて、お互いの道を歩もうと、魂の叫びのようなものが聞こえてきそうだ。そういった意味のある、鳩とエンゼルと光と母親の演出です。鐘の周りとか、絵の下の部分の赤色は、人間としてあるまじき行為に対する私の怒りの爆発です。兄弟姉妹、母の心情、神光、エンゼルの意味は、どうしても「力」を入れて言わなければならない生命線なのです。

原野 宣弘

参考資料4:絵の説明【旅の揚げ句に】2015年(平成27年)3月

私は現在胃瘻しながらの生活で、毎日が病と闘いながらの連続です。そうしながら画いた絵であるし、出来栄えは別としても非常に感慨深い、思い出の深い絵であると思っています。

現在手足が少し不自由してますが、キャンバスに向かう時は心を統一して真剣に向かうようにして画いています。バランスを崩して絵を台無しにしたりしないように。

今回は原爆の絵を描こうと思ったのですが、難しいのが判り、12・13年前にベニチェアに行った折りにとっておいた写真を元に画いた絵です。

この絵の中に大きな女神を画いたのには理由があります。そのわけは、私自身訪問介護の方、訪問言語障害覚士の方、第一日赤の電気治療の先生方、村山医院、武田病院、小倉のデイサービスの方、広野の福祉公社の皆様方と、ありとあらゆる人たちによって死を見つめてきた男を支えられています。自分一人で生きているのではない、皆様によって支えられて、生かされている、と自分を見つめてきた男として、自分が歩んできた人生に感謝を表さないといけないと思い、画きました。

この絵を見ると、周りを人で囲んでいる。この舞台を借りて気持ちを表さないと思いました。

「旅の揚げ句に」という題ですが、真実は皆さんにお礼を言いたくて画いた絵です。
そこは女神がもって生まれた存在感が全てであると思います。
どう思われますか。旅の終わりにこういうことあっていいじゃなかいか、と思いまして画いた絵です。

額縁は高価なものにしましたのは、自分の努力に対するご褒美としました。

原野 宣弘