息子より個展開催に際しご挨拶

HPをご覧頂きまして、ありがとうございます。

この度、いろんな方々のご協力を頂き18年1月10日(水)より、しんらん交流館さんにて父の個展を開催する機会を頂きました。

この場を借りて御礼申し上げます。

本当にありがとうございます。

父は40歳で脳梗塞で倒れ、72歳で亡くなるまでに、いろんな病との戦いの日々でした。
晩年は「胃ろう」という胃に直接チューブをつなぎこみ、口からではなく胃に直接栄養を送る医療行為を行いながら、満身創痍の体にむち打つように絵と向き合っていました。

そこまでして父が伝えたかったこと。

それは「生きる」ということだったのではないかと思います。

父が0歳の時に、母の背中におぶられて長崎市内を歩き回った時に被爆をし、その後人生の半分近くはその被爆の影響からか思ったような人生が送れない自分への悔しさ、もどかしさ、はがゆさ。

生来、負けず嫌いな性格でしたので、本人しかわかり得ない、いろんな葛藤があったんだと思います。

でも、自分はまだこうして生きている。

生きていること、生かされていることへの意味を求め、自分の命を使って、まさしく使命として後生に戦争による絶望、苦しみ、悲惨さ、核廃絶の必要性を訴えたかったんだと私は理解しています。

私は親不孝者でした。

お恥ずかしい話、親孝行らしいことをした記憶はほとんどありません。

父が亡くなって「なぜもっと生前親孝行をしなかったんだろう・・・」と自責の念にかられました。

そんな苦しみの最中、ある人からこんなアドバイスをもらいました。
「たとえ亡くなったとしても、今からできる親孝行もありますよ」
その一言が私を救ってくれました。

でも実際に何ができるんだろう?
暗中模索を続ける中、父が生前お世話になった京都「被爆2世・3世の会」の平さんとお会いする機会を頂きました。

平さんとお話をする中で、
・被爆者支援の団体があること
・そこでいろんな活動をされていること

私自身が被爆2世でありながら、初めてそのようなお話を聞かせて頂きました。

そんな皆様のご協力、ご支援を得て、父の個展を開催することができます。

実は父が亡くなる4ヶ月前、故郷である長崎で初の個展を開催しました。

関係者からは猛反対されましたが、父にとっては故郷で個展を開くのが夢だったようです。

その個展を終えてからわずか1ヵ月後に体調を崩して入院をし、最初はすぐに回復するだろうとたかをくくっていたのですが、入院して4ヶ月後の11月27日、帰らぬ人となりました。

72歳というと今の時代、まだまだ現役で働いてる方も多くいらっしゃいます。

でも父は念願だった個展を開催して、やり遂げたんだと思います。全うしたんだと思います。

早すぎる死を悔やむ想いもありましたが、今ではやり遂げた父の生き様を誇りに思うようになりました。

父の絵をみて、
「戦争をもう二度と起こしてはならない」
「核兵器は地球から廃絶しなければならない」
そんな想いをもって頂ける方が少しでも増えればいいなと思っています。

寒い最中の開催で大変恐縮ではございますが、
一人でも多くの人に足を運んで頂ければ嬉しく思います。