2016年1月27日(水)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化
私は1944年(昭和19年)9月12日の生まれで、原爆が落とされた時は生後10ヵ月でした。ですから私には原爆の記憶など何もありません。全て、後年になって母親や姉たちから聞かされた話です。
私たち家族は戦争当時、長崎市水ノ浦町にある自宅に住んでいました。爆心地からは2.5キロの距離です。家族は、父方の祖母と、両親、二人の姉と二人の兄、そして末っ子の私の8人でした。
私の父は当時三菱造船所飽浦(あくのうら)工場に勤務していて、原爆が投下された8月9日も飽浦工場に出勤していました。しかし、原爆が落とされた当日も、翌日になっても父は自宅に帰って来ませんでした。家族はみんな父のことを心配しました。私の家の隣に父と同じ工場に勤める同僚の人が住んでいて、その人は10日になって帰ってきました。母はその人から父の状況について聞かされました。父は8月9日朝、空襲警報が解除になってから、飽浦工場から機械を疎開させるため、機械を大八車に乗せて、同僚十数人と共に西浦上の兵器工場に向けて飽浦工場を出て行ったとのことでした。
この話を聞いた母は、その翌日から隣家の父の同僚の人や、三菱造船所の社員の人数人と共に父の捜索に出かけていきました。母は生後10ヵ月だった私を毎日背負って出かけました。乳呑み児の私を一日中家に置いておくことはできなかったからです。私は、直射日光を避けるため日本手ぬぐいを頭にかぶせられた程度で、ほぼ裸のままの状態で母に背負われていたそうです。
私を背負った母は、飽浦工場から西浦上の兵器工場までの間を何日も捜し歩きました。毎日夜明けから夜暗くなるまで、黒焦げになった遺体や、重なりあっている遺体、顔も判別できなくなっているような遺体を一つひとつ確認しながら父を捜し歩きました。
一週間ほど捜し続けた頃、浦上川の大橋付近(長崎市松山町・爆心地から約300メートル)で、疎開のために運搬していた機械を発見しました。その機械の周辺で、散乱する骨の中に父の弁当箱と腕時計を見つけました。そこが父の亡くなった場所でした。
原爆によって夫を奪われた母はそれから、病気の祖母と育ち盛りの5人の子たちとの生活を支え、私を含む5人の子どもを独りで育てなければならなくなりました。県庁の職員として働きながら、凄絶で悲惨な生活を歯を食いしばってやっていきました。私たちは母の懸命に生きる姿を見ながら大きくなっていきました。
私は長崎の高校を卒業した後、18歳で大阪に出て来て商事会社に勤めることになりました。仕事の関係で全国の地方を回ったりもしました。やがて転職もし、最終的に現在の京都府宇治市に居を構えて暮らすようになりました。